FC2ブログ

薩摩藩政下の奄美諸島で行われた奴隷政策!

薩摩藩政下の奄美諸島で行われた奴隷政策!

★1609年武力で琉球を侵略した薩摩(島津)藩は人身売買制
で琉球人を縛りつけ、高値で取引された砂糖や外国との貿易で
巨額の富を築いた!

★沖縄本島でも「イリチリ」や尾類(遊女)などが存在したはずだが
歴史から消された!


2015/6/15 ヤンチュとウタレ(北海道MY LOVE)

https://blogs.yahoo.co.jp/ennkuubutu_0413/39401534.html?__ysp=6Kq%2F5omA5bqD6YO3IOeQieeQgyDjg6Tjg7Pjg4Hjg6U%3D


現代でもインドやネパールをはじめ世界各国に存在する「債務奴隷」をご存知ですか?

私はたまたま奄美諸島が薩摩藩政の下にあった時代の「ヤンチュ」に関する図書を手にしま
した。ヤンチュとは、債務奴隷のことで「家の奴」と書かれたり、いろんな表現があります。

奄美諸島は琉球王国の支配下にありましたが、薩摩藩が琉球侵攻の途上に苦も無く制圧し
ました。薩摩は奄美諸島の直轄支配に乗り出しますが、形式的には琉球王国の支配下にあ
るように装い、従った現地の豪農などには中国風の一字姓を与えます。

そうした支配層とは逆の債務奴隷も多数生み出され、各島の人口の2~3割に及びました。
当初はコメが年貢でしたが、薩摩はたちまち黒糖を年貢としました。借財が500万両にも達し
た薩摩藩は家老、調所広郷の元で藩政改革を断行しました。その中心は、奄美諸島から砂糖
を搾り取ることで「八公二民」と呼ばれる荷重な税のために、多くの農民がつぶれて債務奴隷
になっていったのです。薩摩藩は、奄美諸島で貢納のために貨幣経済を禁止するという措置
まで取りました。砂糖の密貿易を防ぐためです。

この本を読んで、私はアイヌ社会の「ウタレ」に思いが及びました。ウタレというのも、アイヌ社
会の奴隷の一種で、こちらは債務とか戦いで負けるなどの人々がなりました。

アイヌ社会も奄美大島も、そうした奴隷階級の人々が生み出されたのは支配層の登場、経済
の拡大などです。日本列島の北と南で同様のことが起きていたのだ、と私は深い感慨にふけりました。

周縁から見る、ことのできる立ち位置にいられることを私は幸せだと思います。


広報 北中城458号 みんなの広場、村史
http://www.vill.kitanakagusuku.lg.jp/site/htdocs/kouho/200602/04.html


しかし、一片の「告諭」で人身売買の風習を無くすることは無理であった。 岩村通俊会計
検査院長は、翌一八八三年一月下旬から二月中旬にかけて、沖縄本島の中頭・国頭両
地方を巡回して、各間切で吏員に身売について尋ねている。次の表を見ると、中頭郡に は
「尾類」(遊女)や「雇人」(シカマ・イリチリ)が多数いたことがわかる。表中に「不明」と ある
のは、岩村院長が身売について質問しなかったことを意味している。中城間切の 場合は、
岩村院長と吏員との次のようなやりとりから、身売人が「多数」いたことがわかる 。


スポンサーサイト

『それからの琉球王国』 「当然の前提」疑い検証 - 琉球新報

『それからの琉球王国』 「当然の前提」疑い検証 - 琉球新報



本書の刊行によって、来間泰男『シリーズ沖縄史を読み解く』は最終刊となる。経済学者
来間が歴史家の研究成果を読み解いていくという作業に、私たち歴史教育者が範としな
ければならないものを見いだす。それは、研究成果に納得するだけでなく、論証しきれて
いない点を追求するという営みである。

 歴史教育の内容として最も重要と思われる問題に絞って考察する。それは、地域支配
者が統合されて「琉球王国」が生まれたという歴史家が当然の前提としたことに疑問を提
示した点である。来間は明帝国の必要によって「琉球王国」に仕立てあげられ、それゆえ
に地域を支配する「租税」はないと断言する。対外交易の衰退によって、16世紀以降は
租税制度が形成されようとはするが、強制力を伴う租税の徴収はなかった可能性が高い
という。

 この「租税」をめぐる議論を考察したい。来間は、グスクは「共同体」の利益を共同で守
る場であり、按司は共同体の指揮者と位置づけ、ノロへの「かない」や労働を、シマ人の
自主的な供物・奉仕と位置づける。さらに、来間は1535年の冊封使録『陳侃(ちんかん)
琉球使録』と研究史を絡ませて、「租税はないと理解すべきである」と同時代史料を援用
していい、首里王府が「臣下」に発給した辞令書で記される「かない」や「すかま」は「捧
(ささ)げ物」から「租税」への過程だという。

 1580年代のノロの辞令書の中に、ノロのエケリ(兄弟)がシマ人を使役することは御
禁制だという条項が出てくる。この史料から、エケリが地域有力者として夫役を行使する
ことに対して、王府が抑制しようとしたものと私は読む。来間の議論では、シマ人のノロ
一族への自主的な奉仕ならば王府は抑制できないはずである。来間は八重山に、17
世紀の20年代にはすでに租税があったという。しかし、その史料は薩摩からの賦課の
ため、王府が「掟(おきて)」として通達したもので、以前からあったことを推論できるもの
ではない。来間がいう「租税制度形成過程」を歴史家は検討する責めを負っている。
(里井洋一・琉球大学教授)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 くりま・やすお 1941年那覇市生まれ。沖縄国際大学名誉教授。著書に「戦後沖縄
の歴史」「沖縄の農業(歴史のなかで考える)」など多数。日本経済評論社から「沖縄史
を読み解くシリーズ」全5巻を刊行した。




琉球から見た薩摩の悪人 調所広郷(ずしょ・ひろさと)


人気ブログランキングへ

★プロミスキーパーズ施設で殺人事件
http://helios40.blog.fc2.com/blog-entry-55.html


琉球から見た薩摩の悪人 調所広郷(ずしょ・ひろさと)

ずしょ ひろさと。1776年~1849年。薩摩藩家老。

http://www.fnet.ne.jp/amami/history/person/h_zusyo.html


 島津重豪に起用され(1827年)、また斉興の時代には重用されて天保の大改革を行った。

 1835年頃の藩の借金は500万両(※1)。
 
この財政を立て直すため、①薩摩の収益の多くを占めていた奄美の黒砂糖を専売制にした(大阪商人の介入を排除)。②大阪商人からの借金を脅迫により無利子250年分割払い(2085年まで)にした(実際に返済したのは1872年の廃藩置県までの間)。③琉球を通じて清との密貿易を行い利益を上げた。
 
これら改革のおかげで藩の財政は1848年には250万両のプラスとなる。

 (※1 藩の借金の原因は重豪の浪費もあったが、その数日本一と言われる武士団の食費が当初より財政を圧迫し続けていたことも原因。郷士含め士分の者が全人口の40%ほどであったと言われる)

薩摩藩が徳川幕府を倒した最大理由です!

http://ameblo.jp/helios40-okinawa/entry-11005506538.html


HIROATO.jpg


AMAMI YANCHU