『それからの琉球王国』 「当然の前提」疑い検証 - 琉球新報

『それからの琉球王国』 「当然の前提」疑い検証 - 琉球新報



本書の刊行によって、来間泰男『シリーズ沖縄史を読み解く』は最終刊となる。経済学者
来間が歴史家の研究成果を読み解いていくという作業に、私たち歴史教育者が範としな
ければならないものを見いだす。それは、研究成果に納得するだけでなく、論証しきれて
いない点を追求するという営みである。

 歴史教育の内容として最も重要と思われる問題に絞って考察する。それは、地域支配
者が統合されて「琉球王国」が生まれたという歴史家が当然の前提としたことに疑問を提
示した点である。来間は明帝国の必要によって「琉球王国」に仕立てあげられ、それゆえ
に地域を支配する「租税」はないと断言する。対外交易の衰退によって、16世紀以降は
租税制度が形成されようとはするが、強制力を伴う租税の徴収はなかった可能性が高い
という。

 この「租税」をめぐる議論を考察したい。来間は、グスクは「共同体」の利益を共同で守
る場であり、按司は共同体の指揮者と位置づけ、ノロへの「かない」や労働を、シマ人の
自主的な供物・奉仕と位置づける。さらに、来間は1535年の冊封使録『陳侃(ちんかん)
琉球使録』と研究史を絡ませて、「租税はないと理解すべきである」と同時代史料を援用
していい、首里王府が「臣下」に発給した辞令書で記される「かない」や「すかま」は「捧
(ささ)げ物」から「租税」への過程だという。

 1580年代のノロの辞令書の中に、ノロのエケリ(兄弟)がシマ人を使役することは御
禁制だという条項が出てくる。この史料から、エケリが地域有力者として夫役を行使する
ことに対して、王府が抑制しようとしたものと私は読む。来間の議論では、シマ人のノロ
一族への自主的な奉仕ならば王府は抑制できないはずである。来間は八重山に、17
世紀の20年代にはすでに租税があったという。しかし、その史料は薩摩からの賦課の
ため、王府が「掟(おきて)」として通達したもので、以前からあったことを推論できるもの
ではない。来間がいう「租税制度形成過程」を歴史家は検討する責めを負っている。
(里井洋一・琉球大学教授)

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 くりま・やすお 1941年那覇市生まれ。沖縄国際大学名誉教授。著書に「戦後沖縄
の歴史」「沖縄の農業(歴史のなかで考える)」など多数。日本経済評論社から「沖縄史
を読み解くシリーズ」全5巻を刊行した。




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琉球から見た薩摩の悪人 調所広郷(ずしょ・ひろさと)


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★プロミスキーパーズ施設で殺人事件
http://helios40.blog.fc2.com/blog-entry-55.html


琉球から見た薩摩の悪人 調所広郷(ずしょ・ひろさと)

ずしょ ひろさと。1776年~1849年。薩摩藩家老。

http://www.fnet.ne.jp/amami/history/person/h_zusyo.html


 島津重豪に起用され(1827年)、また斉興の時代には重用されて天保の大改革を行った。

 1835年頃の藩の借金は500万両(※1)。
 
この財政を立て直すため、①薩摩の収益の多くを占めていた奄美の黒砂糖を専売制にした(大阪商人の介入を排除)。②大阪商人からの借金を脅迫により無利子250年分割払い(2085年まで)にした(実際に返済したのは1872年の廃藩置県までの間)。③琉球を通じて清との密貿易を行い利益を上げた。
 
これら改革のおかげで藩の財政は1848年には250万両のプラスとなる。

 (※1 藩の借金の原因は重豪の浪費もあったが、その数日本一と言われる武士団の食費が当初より財政を圧迫し続けていたことも原因。郷士含め士分の者が全人口の40%ほどであったと言われる)

薩摩藩が徳川幕府を倒した最大理由です!

http://ameblo.jp/helios40-okinawa/entry-11005506538.html


HIROATO.jpg


AMAMI YANCHU


琉球で行った、薩摩式統治システム 『借金で奴隷になった琉球人』


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琉球で行った、薩摩式統治システム 『借金で奴隷になった琉球人』

★歴史から消された薩摩の琉球支配時代の記録!


★薩摩・島津藩が琉球統治時代行った「間接支配」方式は

島津の飼い犬になった、琉球人が同じ琉球人から収奪するシステムを構築しました。


★日本の奴隷制度は欧米型と異なり、支配者は直接手を汚さない方法で行う。

★薩摩は琉球で「人身売買制度」を巧みに使ったのです。


奄美大島で有名な債務奴隷『ヤンチュ』

沖縄本島では

イリチリ(入り切り)

宮古島の

ナグ(名子)

がありますが、残念ながら詳しい記録がありません。

YANCHU.jpg



北中城村(きたなかぐすくそん) 村史「新聞資料編より」 コラム

明治時代の尾類(遊女)と雇人

http://www.vill.kitanakagusuku.lg.jp/site/htdocs/kouho/200602/04.html


1883年当時の中頭地方各間切の身売人

(尾類と雇人)

間切名  尾 類・ 雇 人
    
北谷間切 不 明 不 明

読谷山間切 約112人 約140人

具志川間切 8人 42人

与那城間切 0 0

勝連間切 不 明 不 明

美里間切 14人 不 明

越来間切 約30人 約20人

中城間切 多 数 多 数

西原間切 約220人 約150人

宜野湾間切 約150人 約130人

浦添間切 約190人 約300人

※間切(まぎり)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%88%87


昔の沖縄で人身売買と言えば1950年代まであった糸満売り(イチマンウリ)

辻売り(チージウリ)が有名ですが、他にシカマ・イリチリと呼ばれるものも

ありました。


身売人の半数は「尾類」であった。右の表の「雇人」とは、次のやりとりを見ると、「シカマ」「イ

リチリー」と称されていた人々であったことがわかる。

 問「何歳頃ヨリ出ルヤ」(何歳頃 から他家の雇人として働きに出たか、という意味)

 答「先ツ十五歳位、牛馬ノ飼草ヲ刈取時分ヨリナル」

 問「一人ノ身代金ハ大概幾許ナル ヤ」

 答「弐拾円乃至三拾円ナリ」
 

当時は、貧しい農家の子どもらが、借金の利息のかわりに他家で働いていた。この時期には米一俵の

利息の代わりに、男子が月に一度ずつ、女子が二度ずつ、貸し主の家で働いていたという。利息のか

わりに、月に何日ずつときめて他家で働く人のことを「シカマ」と呼び、大金を借りて毎日他家で働

くひとを「イリチリー」と称していた。



マスコミが語らない沖縄のタブー3、「人身売買」

http://ameblo.jp/helios40-okinawa/entry-11039852684.html


薩摩藩が徳川幕府を倒した最大理由です!

http://ameblo.jp/helios40-okinawa/entry-11005506538.html


身売りのさまざま

http://gdgdwktk.blog.shinobi.jp/Entry/397/