日本による沖縄植民地支配の400年前から続く悲しい歴史 - ユキノシバリ


日本による沖縄植民地支配の400年前から続く悲しい歴史 - ユキノシバリ


投稿日: 2015年5月16日作成者 Yukinoshibariカテゴリー 日本の支配体制が作られた過程タグ 支配, 植民地, 歴史, 沖縄
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沖縄は、現在日本の支配下にある地域です。多くの日本人は、沖縄県は昔から日本の一部であったかのように認識していますが、もともと沖縄は琉球という一個の独立国家が維持されていた地域でした。

いつから日本の支配下にあるのかを紐解くと、およそ四百年前に江戸幕府の指示で薩摩藩が軍事的に制圧して、事実上の植民地支配を獲得したところから始まります。『事実上の』という枕詞を使うのは、日本では政治的な理由から植民地とは呼称されないからですが、実際には帝国主義の時代の典型的な植民地支配と同様、残酷な性質を持っています。

この支配関係は、後に大日本帝国へと引き継がれ、第二次世界大戦中にアメリカ軍による軍事的占領に至ります。1970年代に日米安保条約に反対する声を緩衝する目的で沖縄返還がなされた後、今も軍事拠点としての役割を負わされています。

今回はそもそも沖縄がどうしてそうなってしまったのかを考えてみましょう。


日本による沖縄支配の始まり

対中国貿易の交易路獲得を目指した江戸幕府は、薩摩藩主島津忠恒に対して琉球への侵攻を指示しました。それ以前にも、豊臣秀吉は朝鮮出兵の際に、琉球へ兵糧米の供出を命じていたように、琉球は、大陸や東南アジア、朝鮮半島との中継交易、あるいは軍事行動の重要な拠点でした。

江戸幕府のお墨付きをえた薩摩藩は、1609年に琉球を軍事的に制圧してしまいます。これが、日本による沖縄植民地支配の始まりとなりました。しかし、「宗主国と植民地」という単純なものではないところが、沖縄植民地支配の嫌らしいところです。

琉球と中国の冊封関係

それまで琉球は、中国の王朝と冊封(さくほう)と呼ばれる君臣関係を維持していました。冊封とは中国皇帝と君臣関係を結ぶという関係であり、毎年の朝貢(中国への貢ぎ物)や中国の元号・暦(正朔)を使用するという約束の見返りに、中国の『爵号』を授かる=臣下に任命されるという関係です。冊封を結ぶと、中国から出兵を命令されることもある一方、逆に冊封国が攻撃を受けた場合は中国に対して救援を求めることができるという関係でした。

冊封国は貢物を皇帝に献上しなければなりませんが、皇帝はその数倍の賜物を授けてくれる上、中国は冊封関係のある国に内政干渉しない、という性質のもので、一般に中国の冊封は極めて友好的(皇帝がいつも赤字)な関係にありました。

これは、歴史的にアジアの中で長江と黄河という大河をたたえ、圧倒的な生産力を維持しつつ周辺民族と対峙していた中国の考え方(中華思想)に由来するものです。一方、このような関係はヨーロッパ諸国や日本の様に余剰生産力が少なかった国にとっては到底不可能(採算性がない)ですから、東アジアの開港問題は20世紀まで深刻に複雑になりました。

薩摩藩による沖縄のっとりの手法

薩摩藩は、江戸幕府にも中国皇帝にも黙って、琉球をのっとり、交易を支配しようともくろみました。琉球と中国の既存の冊封関係を利用するため、琉球にあった第二尚氏の王制を存続させながら琉球を間接支配するという手段を用いたのです。江戸幕府へと定期的に使節を派遣させながら、琉球と清との朝貢貿易の実権を握り、薩摩藩の密貿易に利用することで、それまで琉球が通商によって獲得していた富は、薩摩藩にもちだされることになりました。

薩摩支配下の琉球王国では、宮古島・八重山諸島において「正頭」と呼ばれる人頭税が制度化され、15歳から50歳まで(数え年)の男女を対象に年齢と居住地域の耕地状況を組み合わせて算定された額が賦課され、明治維新後まで維持されることになります。

琉球の稲作は、温暖な気候を利用して年間2回ないし3回収穫できる非常に収率の高いものでしたが、薩摩藩はそれまで活発に行われていた稲作を、商品価値の高いサトウキビ生産へと転換させる政策をとります。台風の被害を受けやすい琉球にとって稲の作付減少は、食糧供給を極めて不安定なものにしました。(琉球の伝統的なお酒である泡盛は、インディカ米で作られますが、現在の泡盛の原材料はタイから輸入されています。)

交易の中継地として栄えていた琉球にとって、交易と島民のために生産していた食糧生産のほかにさしたる産業はありません。民はいくら働いても貧窮が増すばかりとなり、人身売買までも行われるようになりました。支配力を行使した薩摩が密貿易の利益を優先したため、琉球の人々は激しい貧困と飢饉に陥るようになっていったのです。

琉球を犠牲にして強大になった薩摩藩

中国と君臣関係にあった琉球を武力によりのっとり、琉球経済から都合よく富を持ち出しながら江戸幕府に隠れて密貿易を行っていた薩摩藩は富を蓄え、倒幕の一翼を担うことになっていきました。

江戸時代末期に琉球王国には欧米各国の船が来港するようになると、薩摩藩は幕府へと干渉し、琉球における対英仏通商を許可させ、1847年、琉球を英仏に開港しました。1853年、米国のマシュー・ペリー提督が日本来航の前に訪れたのも琉球でした。

1867年のパリ万国博覧会では、薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」の名で幕府と別に出展し、幕府の抗議を受けています。

薩摩藩は、幕府の統制を逃れて海外情勢を知り、幕府の統制を逃れて琉球の民衆を虐げ、富を集めることにできる立場にあり、それが後の明治政府の性質に大きな影響を与えたのです。

沖縄にとっての明治維新

1870年代、日本で江戸幕府が打倒されたとき、日本政府は、薩摩や長州出身の有力者が支配する藩閥寡頭体制となりました。今や琉球の富を持ち出してきた薩摩の勢力は、中央政府の政策決定にかかわれる地位にありました。

明治政府が始まると旧薩摩藩鹿児島は、琉球諸島の施政を委任してきた中山王府を廃し、県を置きました。天皇の勅令により琉球国王は華族とされ、新貨幣と紙幣で3万円を渡され、外交権を大日本帝国外務省へと移譲し、琉球藩の負債20万両を帝国政府が肩代わりするとされます。中国との冊封関係を廃するよう要求された琉球政府は反発しましたが、帝国政府から派遣された松田道之らが、軍隊300名余、警官160名余を率いて首里城に入り、城の明け渡しと廃藩置県を布告しました。

当然、清との関係は悪化、領有権問題は1894年の日清戦争までもつれこみ、戦争に敗れた清が台湾を割譲、琉球に対する日本の主権を認めたことで一応の決着をみたが、一部は尖閣諸島領有権問題として現在へと繋がっています。

もちろんですが、琉球の負債というのは、そもそも薩摩による支配下で負債としてつみあがったもので、本来の儲けを薩摩藩に持ち出されていたというわけです。そうして膨らんだ借金を、大日本帝国政府の納税者が肩代わりして、代わりに国王に3万円を渡す、という儀式的解決が軍事的脅迫の下で行われたということになります。こうして、沖縄県は明治政府の中央集権体制へと強硬に組み込まれました。

大日本帝国支配下の沖縄

1879年に沖縄県が置かれてから実に一世代以上をかけて、「民主化」の準備が行なわれ、薩摩藩による間接支配の時代に維持された琉球王朝の制度慣行と中央政府の利害調整が進められました。沖縄に参政権が付与されたのは1912年、宮古島・八重山地域を除いたものです。沖縄全域に参政権が付与されたのは第一次世界大戦が終わった1919年でした。

日清戦争で沖縄と台湾の領有権が確定しているように、沖縄は明治政府にとって実質的には最初の植民地でもありました。明治維新後も被支配の立場に置かれ、明治政府から法的・制度的に差別的処遇を受け続けます。琉球時代旧来の体制が都合よく維持され、人頭税制度も引き継がれました。(税制面でも本土と平等に扱われてはいなかったのです)

これに対立する立場から行なわれた抵抗運動もありましたが、中央政府から派遣される知事と薩摩藩支配の時代からつながる旧体制が結びつき、激しく弾圧しました。第四代沖縄県知事の奈良原茂(ならはら しげる)と、官職を辞してこれに立ち向かい、非業の死を遂げた社会運動家謝花昇(じゃはな のぼる)の対立は有名です。

皇民化

天皇中心の権威主義を浸透させるため、政府による沖縄県の皇民化計画が進められ、旧来の信仰の排除が推し進められました。1890年、琉球八社の中心であった波上宮が国営化されるとともに沖縄各所にあった琉球の信仰における祭祀などを行う施設や聖域(ウタキ、ウガンジュ)は村営化され、拝殿や鳥居を設置された。これらの政策の一環として、1898年には徴兵令も施行されました。

モノカルチャー化とシュガートレイン

米国の中南米支配でバナナやさとうきびによるモノカルチャー支配がすでに行なわれていたように、モノカルチャー化は当時世界の植民地支配で一般的な方法でした。単品を大量生産させることで統治機構を単純化できるとともに、鉄道による大量輸送に依存させることで経済を支配することができます。単品生産により農民は食糧自給できなくなり、資本への依存を深めるとともに下がり続ける賃金を受け取ることになっていくのです。

沖縄でも、第一次世界大戦前後には、産業のサトウキビへのモノカルチャー化が急速に推し進められました。 四代知事奈良原が、日本初の私鉄である日本鉄道の社長経験者だったことからも分かるように、沖縄では早くから鉄道による支配が行なわれました。明治時代末期に沖縄電気軌道が沖縄初の運輸営業を行う鉄道が開通したのを皮切りに、大正時代には沖縄本島に鉄道会社が4社にまで増加、営業路線も北は嘉手納、南は糸満、東は与那原まで拡大します。一部の者が富を蓄積し、「砂糖成金」が生まれました。

モノカルチャー化が進められるとともに、経済構造は本土経済に従属したものになっていきます。産業が単純化されるとともに、人件費は絞り込まれ、少人数で大量の農地を耕さねばならなくなっていったのです。

沖縄経済の破壊

第一次世界大戦が終わると、 深刻な戦後不況に陥ります。砂糖価格は下落し、深刻な不況に陥ると、食糧生産能力を失っていた沖縄は、悲惨な状況に陥ります。沖縄人口の7割を擁していた農村部では、米どころか芋さえも手に入れることが出来ず、ソテツの実や幹を毒抜きして食べたりもしたと言われます。毒抜きが不十分で死んでしまうこともあり、ソテツ地獄などと呼ばれる状況に陥りました。

ドイツの敗戦によって南洋諸島が日本の委任統治になると、沖縄は日本の海外移民政策の人材供給地の一つとなりました。同時期に、ハワイやブラジルなどの中南米諸国へも多数が移民しました。官約移民では、「3年間で400円稼げる」といったことを謳い文句に盛大に募集が行われましたが、その実態は人身売買に類似し、半ば奴隷に近く、長時間の強制労働が行なわれました。

モノカルチャー化で発生した余剰の労働力が海外へと持ち出されたことで、沖縄の経済構造は完全に破壊されました。

飢餓の深刻化と政府による強硬な弾圧

1930年代に世界恐慌による大不況と、農産物の不作が発生すると、さらに飢饉に陥りました。農家では身売りが行なわれるようになり、貧窮は、さらに出稼ぎを目的とした本土、南洋諸島、中南米への移民をエスカレートさせ、恐慌の中で政府主導で拡大していた軍需に取り込まれた人々も少なくありません。

悲惨な状況の中、1930年頃(昭和5年)には、教育労働者組合が結成するなど、学生運動や教員の組合活動が活発化しました。一方政府は、「赤化への恐怖」を理由に特高警察を配置し、労働組合に対する弾圧が行なわれました。政府主導の言論封殺によって、運動家が投獄されたり、沖縄から脱出せざるをえない状況に追い込まれていきました。

1937年に日中戦争が始まると、県主導で厳しい琉球語撲滅運動が進められ、方言の禁止(人々の生活言語を「方言」として区別した)、標準語の強制や、懲罰などが行なわれました。沖縄県民の生活風俗を日本風に改める動きは加速し、伝統的な沖縄の苗字を大和風に改めたり、読み替えたりするようになります。方言は沖縄の「癌がん」であり、「非常時」のために,「沖縄的なものの総てを取り去ろう」とまで言われました。こうして、急速に進められた同化政策によって、太平洋戦争までに日本本土との「一体感」が作られたのです。

沖縄戦

1941年に始まった太平洋戦争ですが、1944年に入るとアメリカ軍の太平洋正面での攻撃が本格化します。アメリカ軍は中国の成都にB-29を進出、西日本の空爆が可能になり、マリアナ諸島サイパン島が陥落(1944年7月)すると、関東まで含めた本土爆撃が可能となります。1945年3月に硫黄島基地が陥落すると、日本軍は最終的にサイパン島への反撃手段を失いました。1944年10月にはフィリピンの戦いが始まり、インドネシア周辺の資源地帯へのアクセスを失うことになる日本軍の作戦は必勝を前提とした危険なものになっていきます。原油を失うことは、国家経済の壊滅を意味し、海軍にとっては残存する艦船がすべて行動不能になるシナリオが見え始めていました。

沖縄では、1944年2月にマリアナ戦線の後方拠点として南西諸島(九州南端から台湾北東にかけて位置する島嶼群)の防備に着手、第32軍が編成されました。サイパン島が陥落すると政府は沖縄戦を想定し、住民の疎開を検討しはじめます。住民の反発する中、本土や台湾へ8万人以上が集団疎開し、ここでも琉球民族は分断されることになります。その中には約1500名が犠牲となった対馬丸のケースもあります。15万人が沖縄本島北部へと県内疎開が行なわれました。

軍と住民の相互不信

長年の植民地政策の結果、消費米の2/3が県外に依存する体質となっており、海上交通が維持出来なくなった場合、沖縄住民の統治が維持できなくなる可能性がありました。

沖縄防衛を任務とする第32軍参謀長が「サイパンが陥落したのは島民5万が軍の懐に入り込み、活動を妨害したからだ。沖縄本島の場合、約42万の島民を5万から10万ぐらいにまで退去させなければ、再び前車の鉄を踏むことになる」と指摘したと言われているように、軍も、住民保護目的ではなく、作戦上の目的を重視したという経緯があります。疎開に応じないことを懸念した県当局は、疎開を警察部に担当させ、威力をもって住民疎開を推進しました(実際、本土出身者以外の疎開は県民になかなか受け入れられなかったと言います)。


「爾今軍人軍属ヲ間ハズ標準語以外ノ便用ヲ禁ズ沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」

軍当局と住民の相互不信が高まる中、軍部は琉球語による会話を禁じ、方言使用者にスパイ容疑をかけることになっていきます。住民が日本軍に殺害されたという証言や沖縄戦の最中に民間人が強制自決させられたとの証言がしばしば引用されますが、軍部が沖縄を軍事的要衝とみなしていた、緊急事態であった、ということだけでなく、長年本土と区別され、事実上の植民地として扱われてきた沖縄県住民と、本土からやってきた軍当局の間に根深い相互不信があったのです。

1945年に米軍がついに沖縄本島に上陸を開始すると、最終的に20万名の命が失われました。このうち、沖縄出身者は12万名でした。沖縄の人口は42万人のうち12万人が戦死し、8万名が集団疎開によって沖縄から切り離された状態で終戦を迎えることになるのです。

結び

江戸時代、琉球は幕府による直接支配ではなく薩摩藩による間接支配下に置かれました。それは、清との貿易による利益を薩摩藩が横取りするために作られた構造でした。

交易によって富を蓄えた薩摩の有力者たちが倒幕の一翼を担い、中央政府の要職を占めるようになると、彼らは沖縄の支配を中央政府に従属させました。中央政府の統治下で行なわれた支配は、 当時一般的だった植民地統治とよく似た構造を持っています。間接支配により交易を横取りする構造から、沖縄の統治機構を本土の保守体制へ、沖縄経済を本土の経済へ、沖縄の労働力を本土の資本へと従属させる構造に移行するものでした。

その後、第二次世界大戦中にアメリカ軍によって軍事的に占領され、1970年代に日米安保条約への批判をかわす目的で、安保条約更新に激しい反対運動がなされる中、沖縄は返還されました。結局、対米従属型の保守体制を持つ日本に対して従属するという支配の入れ子構造を成し、米国に軍事拠点としての役割を負わされています。



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